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座談会:扇が丘キャンパスの大学建築群が持つ文化的価値を考える【前編】
はじめに
建築家?大谷幸夫氏(1924-2013)が設計した、金沢工業大学扇が丘キャンパス北校地は、時代の要請に応じて校舎の増築が行われてきました。最も古い1号館(旧?本館)は1969年に竣工し、2019年にはDOCOMOMO Japanから「日本におけるモダン?ムーブメントの建築226選」に選定されました。また、北校地全体は、1982年(第34回)日本建築学会賞(作品)を受賞しています。校舎だけでなく、中央に配置された広場を含む外構に至るまで、全体がひとりの建築家によって丁寧に設計されている点も大きな特色です。
金沢工業大学はキャンパスそのものを後世に受け継ぐべく文化資源と捉え、継続的な営繕工事を通じて貴重な大学建築群の保全に力を注いでいます。モダニズム建築の保存?活用について、国際的にもさまざまな議論が展開されているなか、今一度、扇が丘キャンパスが持つ文化資源としての価値を考えるため有識者を招いた座談会を行いました。前編となる今回は、金沢工業大学と大谷氏との関わり、大谷建築における扇が丘キャンパスの特異性などについてお話いただきました。
大谷幸夫(おおたに?さちお)
東京大学三亚赌场,香港赌场建築学科にて丹下健三に師事し、その後1960年まで広島平和記念資料館や旧東京都庁舎などの設計に関わる。長らく東京大学にて教鞭を取り、設計活動とともに後進の育成を行った。主な作品に、国立京都国際会館(1966-1998)や沖縄コンベンションセンター(1987-2000)など。金沢工業大学では扇ヶ丘キャンパス北校地を手がけた。
参加者

中本武志(なかもと?たけし)
一級建築士事務所中本設計事務所代表
1991年東京電機大学理三亚赌场,香港赌场建設工学科卒。1995年~2023年大谷研究室在籍。主な担当作品に、山口県シンフォニア岩国、国立京都国際会館アネックスホール、金沢工業大学7号館工学設計棟?2号館耐震改修?6号館ライブラリーセンター内装改修など、石川県立七尾高等学校、国立環境研究所循環?廃棄物研究棟、国立環境研究所ナノ粒子健康影響実験棟、千葉市美術館拡張整備。2023年3月大谷研究室解散に伴い独立。2023年7月より現職。

勝原基貴(かつはら?もとき)
金沢工業大学建築学部建築デザイン学科講師
1984年東京生まれ。専門は、近代建築史。日本大学理三亚赌场,香港赌场卒業後、同大学理工学研究所、文化庁国立近現代建築資料館、千葉大学を経て現職。著書に『有名建築事典:イラスト&解説500』(学芸出版社、2025)、『クリティカル?ワード現代建築』(フィルムアート、2022)、『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』(京都大学学術出版会、2020)など。博士(工学)。一級建築士。
聞き手:デザインアートラボ
金沢工業大学が推進するSTEAM教育におけるA(ART)を取り入れた学びの機会を創出する部署。金沢工業大学が所蔵する多様な文化資源を教育活動に活用する取り組みも行う。

金沢工業大学と大谷幸夫
―金沢工業大学は、1957年開校の北陸電波学校を前身として1965年に開学しました。そもそも、どのような経緯で大谷氏がキャンパスの設計を担当することになったのでしょうか。
中本:
大谷先生は、北陸では金沢工業大学の前に「協同組合富山センター団地」1を設計しています。当時、東京大学で教鞭を取っていた都市計画家の高山英華先生からの紹介で、まだ独立して数年だった大谷先生がこの仕事をすることになったそうです。金沢工業大学の創設者である泉屋利吉氏がこの建築に興味をお持ちになってご覧になり、その後、本館(現?1号館)、土木棟(現?2号館)の設計を任せられることになったと聞いています。
勝原:
そもそも金沢工業大学は野々市町に1962年に移りますが、現在の扇が丘キャンパスに来る前は、いま「にぎわいの里ののいち カミーノ」が建つ場所にあった小学校の校舎を間借りしていました。その後、いまの南校地に移ります。そして1969年に巨大なRC造の1号館と2号館が建ちます。当時、周りは田んぼしかありませんから、街中に新しい建築が建つのとはまったく違う、まさに「宇宙船が舞い降りた」かのような強烈なインパクトがあったと思います。

―「協同組合富山センター団地」も金沢工業大学も、施工担当は同じ建設会社ですね。
勝原:
1960年代末とはいえ、石川県のこの場所で、まだ現代的な建築が多くない時期にこれだけ大規模なRC造建築を手掛けることは、建設会社にとっても大きな技術的挑戦だったはずです。次の時代を見据えた新しい建築に挑もうとする彼らの強い意志があったのではないかと想像できます。
―金沢工業大学の建築にもまた、建設会社の挑戦は続いていくわけですね。1966年には大谷氏の代表作である「国立京都国際会館」2も竣工しています。金沢という地方都市において新たに教育機関を立ち上げるにあたって、依頼の背景に大谷氏の知名度などもあったのでしょうか。
中本:
戦後最大のコンペということで、当時、「国立京都国際会館」の仕事は大変注目されたものだったと伺っています。
勝原:
当時は、雑誌をはじめとする建築系の三亚赌场,香港赌场が現在よりも多く存在していたので、コンペの結果が伝わるのは結構スピーディーですよね。結果が公表されれば、次の月の号には必ず掲載されていますし、何より「国立京都国際会館」は、日本で最初の国立の国際会議場として竣工時も多くの三亚赌场,香港赌场が取り上げました。やはり建築界に限らず独立間もない大谷幸夫という存在が広く知れ渡るきっかけになったはずです。
11967年竣工の富山市に位置する商業卸団地。降雪の多い富山県の気候に配慮し、両棟の庇を延ばして建物間の道路を屋根で覆っている。
21966年竣工の京都市左京区に位置する国際会議場。その設計競技は、1等案受賞者が実施設計を担当することを規定に明記し、また審査過程をまとめた報告書を作成するなど、当時としては画期的なものであり、大きな話題を呼んだ。宝ヶ池公園や比叡山など、自然との応答を念頭に設計が行われた。
大谷建築における金沢工業大学の特異性
―扇が丘キャンパスは、大谷氏の建築思想が結実した事例であるとしばしば語られてきました。大谷氏の仕事の中における金沢工業大学の特異性とはどのようなところにあるのでしょうか。
中本:
大谷先生の重要な考えである「個即全」、あるいはフォーマルな部分とインフォーマルな部分の存在が強く反映されているように思います。もちろんそれは他の建築でも一貫してあるものですが、金沢工業大学の場合は第1期から第4期3まで、北校地キャンパス全体の造営に長きにわたって携わっている 。その時期その時期で、まだ定まっていない将来の大学の在り方に対応できるように、あらゆる可能性を排除せずに計画を慎重に進めていった。こうした将来へのフレキシブル性というのも金沢工業大学の大きな特徴のひとつかもしれませんね。
勝原:
建築学部に限らず、学科混成の授業でも、キャンパス全体がどのような思想のもとに構想?計画され、段階的に整備されてきたのかという話をしています。更新され続けた計画のなかで、当初の構想をとどめている象徴的な部分が、1号館の奥にある廊下を挟んで十字形に配置された四角いユニット状の教室群です。これらのユニットは将来的に延長可能な構成として計画されていて、廊下の窓が床まであることも、2階部分を含めて増築を想定していたことの表れかと思います。
地下道は、結果的に第1期の時からは伸びていないですが、「なんでここで途切れているんだろう」というような場所までしかないのは、そうした最初期のキャンパス計画を前提としていたためでもあります。車と人の動線についても、当初は、歩車分離の考え方が徹底されていて、複数の車両の進入経路が高橋川沿いにも計画されていました。ライブラリーセンター側まで建設が進むにつれて、そのあり方は変化していきました。計画の進展に伴って、学生や教職員の動き、人と車との関係といった動線の回路も少しずつ見直されてきたのです。
こうした変化を最も端的に示しているのは、やはり下駄箱の存在ですね。かつては1号館や2号館に入る際、靴についた泥や雪を落とし、履き替えてから校舎に入る仕組みになっていました。1号館では外側が掲示板となっている女性用更衣室付近、2号館では模型が展示されている場所にその名残が見られます。上履きに履き替えて校舎に入ると、地下道で各館を行き来できるという作りだったので、これらの空間は今とは相当違う使われ方をしているところかなという気がしますね。


―いま泥や雪の話もありましたが、北陸という場所との関係性は他にもあるのでしょうか。
野々市にある喜多家住宅4のような伝統的な建物が参考になっているという資料もありました。
中本:
喜多家住宅は、平山忠治さんという写真家の『民家』5という写真集 に作品としてありまして、大谷先生もその迫力に圧倒されたとコメントをしていましたね。喜多家住宅にも、囲炉裏があって人が集う「おえ」に大きな吹き抜けがあり、上部に窓があります。どことなく1号館の吹き抜けに似ているかもしれません。また、北陸の建築の伝統という意味では、回廊ですね。これは北陸地域の雁木造り6を模しているようなところがあります。雨や雪の日でも足元は乾いていて難儀することなく移動できます。
さきほどお話にでた地下道も天候の影響を受けずに人の往来ができますが、これは南校地から接続されました。さらに設備共同溝として空調、給排水、電気、情報通信など大学施設の設備インフラを支えています。外部の影響を受けづらいのでメンテナンス性、耐久性の面でも有利です。一般的に新しく棟を増やす時には設備配管類は煩雑になりがちですが、この共同溝のおかげで地上ではさほど目に触れることなくキャンパス造営を続けていくことができました。時代とともに変わりゆく設備類の更新、拡張も行い易く当初の先見性をうかがい知ることができます。
また大谷先生は中庭やラウンジのように講義室でもなく単なる通路でもない中間領域をインフォーマルな交流が生まれる大切な場所として扱っています。ところが、雨や雪が多い北陸では外部に中庭を作ってもなかなか使いづらい。そういった気候風土も考慮して、屋内に中庭のような大きなアトリウム空間を作った。ここを人が集う装置として構成したらどうか、というアイデアを泉屋氏に提案したと思いますが、それを理解してくださり、また、将来を見通す力と決断力があってこそ実現するに至ったのだと思います。


―建築の特性が教育の場へとつながっていく。
勝原:
第1期から第2期に移るとき、大学としては経営上の観点から高層化や5階、6階建てとする話もあったそうです。しかし、最終的には低層階で進める方針となり、その経緯には理事会とのやり取りがあったと、以前、水野一郎先生7がお話されていました。
中本:
大谷先生はやはりヒューマンスケールを大切にしています。「個即全」の「個」ですね。全体ありきを優先するあまり、「個」としての人間をないがしろにしてしまうことだけは避けたいという考えがありました。ですから、5階や6階建てが必要で、「個」がしっかり成り立つのであれば、それもあったかと思います。現にライブラリーセンターは高層階ですし。
回廊や廊下についてもそうです。単なる通路を設計していたら行き詰まってしまう。そこにラウンジがあったり、ベンチが置いてあったり、いろいろな要素があることによって、さまざまな交流や余裕のある空間が生まれてくる。モダニズム建築の機能主義の行き詰まりを意識しつつ、じゃあどうしたらいいのかっていうので、少し余裕を持たせて、中庭を作ったり、アトリウム空間を作ったり、そういうことにトライされていたのだと思います。
勝原:
「個」と「全体」の関係が、さまざまな場所においてスケールを変えながら織り込まれている印象を持っています。1号館の階段教室を降りてきたところに、2人ほどがこっそりおしゃべりするのにちょうど良い、アルコーブと呼ばれる空間があります。おそらくベンチとかもかつては、たくさんの人数で座れるものもあれば、1人で静かに過ごせるものもあったのだろうと。1人から複数人まで、さまざまな単位に応じた居場所が、それぞれの校舎やキャンパスの中に散りばめられている。
中本:
たしかに、そうした入れ子状の構造も金沢工業大学の特徴かもしれません。アルコーブやベンチに始まり、教室があって、それが中庭としてのアトリウム空間に面していて、キャンパス全体で俯瞰してみれば、複数の建物の配置の真ん中に広場のようなものがある。そうしたインフォーマルな部分での交流をすごく大事にされていた。 偶然出会ってちょっと立ち話をしてみたり、一緒に受けた講義の感想を語り合ったり。
直接は見たことがないのですが、学園祭の時にはステージなど、アトリウム空間全体がさまざまに使われているそうですね。そういった自由な使われ方をされていると聞いて、これは大谷先生の意図したものが実現されているのだなと思いました。
―キャンパス全体も人間が体感するにはちょうど良いスケールな気がします。サインがあまりないということにも関連しそうですが、キャンパス自体が自然と身体に合ってくるような感覚があります。
中本:
北校地は窓から中庭越しに他の棟が視界に入ったり、見通しがよく効く空間構成となっています。どこの建物の中でも迷うことがないというか、自分が今キャンパスのどこにいるかを認識しやすいのかもしれません。
勝原:
もし大学キャンパスが学問の場としてだけでなく、キャンパスという空間そのものを肉体化することで、人と人とのつながりや公共性を学ばせるフィジカルな教材であるとするならば、そこに安易に「ここは何号館です」とサインをつけて理解させるというのは、大事な機会が失われるという危険性もありますね。
インフォーマルな交流という観点からみると、かつて1号館では教員?職員?学生が立場の違いを越えて、ひとつのホワイエ空間を共有しながら、今よりも多くの人々が緩やかにつながっていました。そして当時は、周辺に目立った娯楽施設がなかったこともあり、ホワイエは学生たちが最も集う、自然な居場所となっていました。SNSの時代になって人間関係の在り方も大きく変わるなかで、現代の世代にとってインフォーマルな関係とは何かを問い直すうえでも、このキャンパスはきわめて有効な場であると思います。さらに、これからのAI時代の人間形成にとって、金沢工業大学のキャンパスに込められた理念は益々大事になってくるはずです。
最近も回廊のところで建築の学生が木工制作をしているのを見ましたが、部屋とか通路とか単純な機能の切り分けを超えて、人間の力をより引き出していくようなキャンパスの使い方を考えていきたいですね。
3第1期(1967-1969/1969竣工):本館?2号館、第2期(1975-1976/1976竣工):3?5号館、第3期(1979-1982/1982竣工):ライブラリーセンター、第4期(2000竣工):7号館。
4喜多家住宅(野々市市)は、酒造関連施設とともに、明治中期に野々市本町に移築?整備された江戸時代後期の大型町家。吹き抜けに展開するダイナミックな小屋組は見どころ。また、細い縦格子や腕木に支えられた袖壁などの金沢町家にみられる典型的な特徴を色濃く残す。大学近くにある国の重要文化財。
5平山忠治『民家』彰国社、1962年。
6町家の軒先を連続させて生まれる半屋外の通路空間。建物の一階部分を道路側に張り出す、あるいは庇を深く架けることで、歩行者が雪や雨を避けながら移動できる冬季の生活インフラ。新潟県を中心に、日本海側で多く見られる。
7水野一郎(1941-):金沢を中心に活動する建築家。1966年から1976年まで大谷研究室に所属し、金沢工業大学キャンパスの設計?施工に関わる。1977年より金沢工業大学の建築教育を長きにわたり牽引した。金沢の文化財保護やまちづくりにも取り組む。金沢計画研究所相談役。金沢工業大学名誉教授。
後編では、施設部の岡村秀紀氏にもご参加いただき、金沢工業大学がこれまで取り組んできた修繕工事の概要や、金沢工業大学の事例から考えられるモダニズム建築の保存?活用の方向性などについてお話いただきます。
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