ケプラーは、もちろん有名な惑星運行に関する「ケプラーの三法則」を発見した、天文学史上最大の学者の一人です。彼は不幸な家庭に生まれ、不幸な結婚をし、ルター派のプロテスタントであったために、カソリックが支配的であった当時のヨーロッパで、母国ドイツにもその他の国々にも遂に安住の地を見出せず、家庭的なトラブルに常に悩まされ続けた人ですが、研究上では比較的幸運にめぐまれ、偉大な業績を残したのです。
彼はチュービンゲン大学の牧師をめざしている優秀な学生だったのですが、コペルニクス地動説の熱心な支持者だった大学の天文学教授メストリンに深く影響されて、コペルニクス天文学に興味を持つようになりました。大学を終え、更に神学の課程に進んだ時、グラーツのルター派学校の数学教師が亡くなり、グラーツ市当局はチュービンゲン大学に後任を送るように頼んだのです。大学当局はケプラーを、彼の牧師になりたいという意思に反して後任に任命し、彼はその仕事を続ける事によって数学と天文学に対する興味を再びかき立てられることになったのでした。ところが、1598年9月の或る日、グラーツ市当局は、総てのプロテスタントの教師は日没までに市を去らねばならないという命令を出し、ケプラーは職を失い、1600年ようやくボヘミア(チェコスロヴァキア)のプラハで、国王ルドルフII世に仕えていた有名なデンマーク人天文学者、ティコ?ブラーエの助手となる事に成功しました。ところが1601年、ブラーエが亡くなり、ブラーエの職を継ぐと共に天文観測所や観測記録をも受けついだのです。このことはケプラーの天文学研究に非常な便宜になり、彼は第一級の天文学者となったのでした。
ところで1600年6月10日の部分日蝕の際、ブラーエの指示によってピンホール?カメラを造って日蝕の像を観測したことは、ケプラーに光学に関する興味を引き起しました。カメラの像の出来ぐあいを観測し、「光線」の概念を発見し、アルハゼンよりはるかに明確な形で、ものが見えるのは網膜上の光線による像による事を明らかにしたのです。同時に彼はレンズの研究を始め、不完全ではありましたが屈折の法則を発見しています。彼はまたこれらの結果を観測に応用した時の諸問題をも研究し、例えば太陽の像の大きさの年間変化は、太陽と地球との距離の年間変化に反比例することを発見しています。彼はこの結果をまとめ、13世紀にアルハゼンに基づいて光学の研究をしたポーランドの修道僧、ウィテロの著作への補遺という形で、1604年に本書を出版したのです。この成果とガリレオの望遠鏡による天体観測の結果に刺激されて、後はさらに研究を進め、1611年に彼の光学研究の集大成「屈折光学」を出版し、幾何光学という科学の分野を創始したのでした。
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